Apr 23, 2018

自省録 - マルクス・アウレーリウス



特筆すべきは、たとえば雄弁とか、法律、倫理、その他の事柄に関する知識など、なにかの点で当別の才能を持った人びとにたいしては、妬みもせずにゆずったこと。それのみか彼らを熱心に後援して、各々がその独特の優れた点に応じて名誉をうるようにはからったのであった。(第1巻一六)

思い起せ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか、また行く度神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか。しかし今こそ自覚しなくてはならない、君がいかなる宇宙の一部分であるか、その宇宙のいかなる支配者の放射物であるかということを。そして君には一定のときの制限が加えられており、その時を用いて心に光明をとり入れないなら、 時は過ぎ去り、君も過ぎ去り、機会は二度と再び君のものとならないであろうことを。
(第2巻四)

至る時にかたく決心せよ、ローマ人として男性として、自分が現在手に引き受けていることを、几帳面な飾り気のない威厳をもって、愛情を持って、独立と正義を持って果たそうと。また他のあらゆる思念(パンタシアー) から離れて自分に休息を与えようと。その休息を与えるには、一つ一つの行動を一章の最後のもののごとくおこない、あらゆるでたらめや、理性の命ずることにたいする熱情的な嫌悪などを捨て去り、またすべての偽善や、利己心や自己の分にたいする不満を捨て去ればよい。見よ、平安な敬虔な生涯を送るために克服する必要のあるものはいかに少ないことか。以上の教えを守るものにたいして神々はそれ以上何一つ要求し給わないであろう。(第2巻五)

せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう、私の魂よ。自分を大事にする時などもうないのだ。めいめいの一生は短い。君の人生はもうほとんど終わりに近づいているのに、君は自己にたいして尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂の中におくようなことをしているのだ。(第2巻六)

外から起こってくる事柄が君の気を散らすというのか。それなら自分に暇を作って、もっと何か善いことをおぼえ、あれこれととりとめもなくなるのをやめなさい。またもう一つの間違いもせぬように気をつけなくてはならない。すなわち活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念とを向けるべき目的を持っていない人たちもまた愚か者なのである。(第2巻七)

他人の魂の中に何が起こっているか気をつけていないからといって、そのために不幸になる人はそうたやすく見られるものではない。しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる。(第2巻八)

今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること。しかし人間の中から去っていくことは、もし神々は君を悪いことに巻き込むようなことはなさらないだろうから。ところがもし神々が存在しないならば、もしくはもし彼らが人間どものことなどかまわないならば、神々の存在しない宇宙、摂理のない宇宙に生きていることは私にとってなにになろう。いや、神々は存在する、そして人間どものことを心にかけておられるのだ。そして人間が真に悪いことのなかへおちこむことのないように、彼にすべての力を与え給うたのだ。もし未来においてなにか悪いことがあるとすれば、すべての者がその中におちこむのを避けうるように、神々があらかじめ用意しておき給うたであろう。人間を悪くしないものが、どうしてその人間の生活を悪くなしうるであろうか。宇宙の自然が知らないでこのことを見すごしたはずはないであろう。あるいは知っていながらこれを防ぐことも、正すこともできないから見すごしたというはずもないであろう。また無力か無能力のためにあやまって善人にも悪人にも平等に善いことと悪いことを起きるようにしたわけでもないであろう。とはいえたしかに死と生、名誉と不名誉、苦痛と快楽、富と貧、すべてこういうものは善人にも悪人にも平等に起るが、これはそれ自身において栄あることでもなければ恥ずべきことでもない。したがってそれは善でもなければ悪でもないのだ。(第2巻一一)

人生は一日一日と費やされて行き、あますところ次第に少なくなって行く。それのみかつぎのことも考慮に入れなくてはいけない。すなわちたとえある人の寿命が延びても、その人の知力が将来も変わりなく事物の理解に適し、神的および人間的な事柄に関する知識を追求する鑑賞に適するかどうか不明である。なぜならば、もうろくし始めると、呼吸、消化、表象、衝動、その他あらゆる類似の機能は失われないが自分自身をうまく用いること、義務の一つ一つを明確に弁別すること、現象を分析すること、すでに人生を去るべき時ではないかどうかを判断すること、その他すべてこのようによく訓練された推理力を必要とする事柄を処理する能力は真先に消滅してしまう。したがって我々は急がなくてはならない、それは単に時々刻々死に近づくからだけではなく、物事にたいする洞察力や注意力が死ぬ前にすでに働かなくなってくるからである。
(第3巻一)

つぎのことにも注意する必要がある。それは自然の出来事の随伴現象にもまた雅致と魅力があるということだ。(中略) その他多くのものは、これを一つ一つ切りはなして見ればとうてい美しくはないが、自然の働きの結果であるために、ものを美化するに役立ち、心を惹くのである。かように宇宙の中に生起することにたいする感受性とさらに深い洞察力を持っている人には、たとえほかのことの結果として生ずるにすぎぬものでさえも、なにか特殊な魅力を持たぬものはほとんどないように感ぜられるであろう。かれは現実の野獣が口をあんぐりあけたのを見ても、画家や彫刻家がこれを模倣して表現する作品をながめるにも劣らぬ快感を覚えるであろう。また彼の思慮深い眼をもってすれば、老いたる男女の中にもある力づよさと成熟の美を、若いものの中には愛らしい魅力を見出しうるであろう。これに類するものは沢山あるが、それは万人の心を惹くていのものではなく、ただ真に自然とそのわざに親しんだ者の心にのみ訴えるのであろう。(第3巻二)

公益を目的とするのでないかぎり、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。なぜならばそうすることによって君は他の仕事をする機会を失うのだ。すなわち、だれそれはなにをしているだろう、とか、なぜとか、なにをして、なにを考え、 なにを企んでいるかとか、こんなことがみな君を呆然とさせ、自己の内なる指導理性(ト・ヘーゲモニコン)を注意深く見守る妨げとなるのだ。
したがって我々は思想の連鎖においてでたらめなことやむなしいことを避けなくてはならない。またそれにもましておせっかいや意地の悪いことはことごとく避けなくてはならない。そして突然ひとに「今君はなにを考えているのか」と尋ねられても、即座に正直にこれこれと答えることができるような、そんなことのみ考えるよう自分を習慣づけなくてはならない。このようにすればその返事によって、すべて君の内にあるものは単純で善意に富み、社会性を持つ人間にふさわしいものであることや、また君が快楽に無関心で、あらゆる享楽的な思いや競争意識や嫉妬や疑惑やその他すべて君が自分の個々との中にあるというのを赤面するであろうようなことは、いっさい考えていないことがただちに明らかになるだろう。 
まことにこのような人間は、つまりすでに今からもっとも優れた人間の一人であるべく努める人間は、いわば一種の祭司であり、神々の仕えびとであって、また自分の内に座を占める者にも奉仕するのである。その内なる者は人間が快楽に染まぬように、いかなる苦痛にも傷つかぬように、いかなる危害の手も届かぬように、いかなる悪にも無感覚であるように守り、彼を最大の競技──すなわちいかなる激情にも打ち負かされぬという競技における選手となし 、また彼を正義の中に徹底的に浸して、すべての出来事や自分に運命づけられた事柄を心の底から歓迎するような人間となし、特に必要な場合や公共のための場合を除いては、他人が何をいい、何をおこない、何を考えているかについてめったに考えもしないようにする。このような人間は自分に関係したことのみを活動の対象となし、宇宙全体を織りなすものの中から自分に振り当てられているものについてたえず思いをひそめている。そして自分の務めはこれをよく果たすようにつとめ、自分に与えられている運命は善であることを確信している。なぜならば、各人に与えられている運命は宇宙の秩序の中に含まれ、またその中に宇宙の秩序をも含むのである。
このような人間はすべて理性あるものは同胞であること、 またあらゆる人の世話をすることが人間の自然の性にかなうことであることを記憶している。また我々はあらゆる人の意見を守るべきではなく、ただ自然に従って生きる人の意見のみを守るべきであることを記憶している。そしてそういう生き方をしない人びとは家の内外で夜昼、どんな人間であるか、またどんな人間と交わっているか、──こういうことを彼は常に念頭においている。であるからそういう人びとの賞讃などなんら問題にしない。というのはこういう連中は自分自身をさえ満足させられない人たちなのである。(第3巻四)

まことに人生において出逢う一つ一つのものについて、組織的に誠実に検討しうることほど心を偉大にするものはない。その対象がどんな宇宙にたいしてどんな効用を持っているのか、全体にたいしてどんな価値をもっているのか、人間──最高の国家の市民であり、その国家と比べればほかの国家はみなその中の家にすぎないようなものだが──にたいしてどんな価値を持っているかを考察し、それが何であるか、どんな要素から構成されているか、現在私にこういう印象を与えているこの対象はどれだけの間このままで存続するか、これにたいして私はいかなる徳を必要とするか、──たとえば優しさ、猛々しさ、真実、信義、単純、自足、その他ー 等以上の点を考察しうるように、常々そんなふうに個々の対象を見ることほど心を偉大にするものはないのである。(第3巻一一)

医者がつねに救急処置用のメスを手許に所持しているように、君もつねに君の信条を用意して神のこと人間のことを理解し、些細なことといえどもすべてこの両者間の相互の関連を意識しつつおこなえるようにしておくがよい。なぜならばいかなる人間的な事柄といえどもこれを心的なことに関連づけなくてはうまくおこなうことはできないし、その逆も同じである。(第3巻一三) 

人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈にあこがれる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、きみはいつでも好きな時に自分自身の内にひきこもることができるのである。実際いかなるところといえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。この場合、それをじいっとながめているとたちまち心が完全に安らかになってくるようなものを自分の内に持っていれば、なおさらのことである。そして私のいうこの安らかさとはよき秩序にほかならない。であるから絶えずこの隠家を自分に備えてやり、元気を回復せよ。そして(そこには) 簡潔であって本質的である信条を用意しておくがよい。そういう信条ならば、これに面と向かうや否やただちにあらゆる苦しみを消し去り、君が今まで接していたことにたいして、なんの不服もいだかずにこれにもどって行けるようにして返してくれるだけの力は、充分持っているであろう。
ところでいったい何にたいして君は不満をいだいているのか。人間の悪にたいしてか。つぎの結論を思いめぐらすがよい。理性的動物は相互のために生まれたこと、互いに忍耐し合うのは正義の一部であること、人は心ならずも罪を犯してしまうこと。また互いに敵意や疑惑や憎悪をいだき、槍で刺し合った人びとが今までにどれだけ墓の中に横たえられ、焼かれて灰になってしまったかを考えてみるがよい。そしてもういいかげんで心を鎮めたらどうだ。
しかし君は全体の中から自分に割りあてられていることにたいして不満を持っているというのか。次の選言命題を思い起こすがよい。「摂理か原子か。」 また宇宙は国家に似たものであるということがどれだけ多くの事実によって証明されているかを思い起こすがよい。
それとも肉体のことが君を未だにつかまえて放さないのか。 ひとたび叡智が自己を取りもどし、自己の威力を知ったときには、平らかにまたは荒々しく動く息に何の関わりも持たないことを思え。また苦痛や快楽について君が聞きかつ同意したところのことをことごとく思い浮かべよ。
それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるのを、喝采の響きの空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変りやすいこと、思慮のないことを、以上のものを囲む場所の狭さを。全く地球全体が一点に過ぎないのだ。そして我々の住む所はこの地球のなんと小さな片隅にすぎぬことよ。そこでどれだけの人間が、またどんな人間が、将来君を誉めたたえるというのであろうか。
であるからこれからは、君自身の内なるこの小さな土地に隠退することをおぼえよ。何よりもまず気を散らさぬこと、緊張しすぎぬこと、自由であること。そして男性として、人間として、市民として、死すべき存在として物事を見よ。そして君が心を傾けるべきもっとも手近な座右の銘のうちに、つぎの二つのものを用意するがよい。その一つは、事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎないということ。もう一つは、すべて君の見るところのものはまたたく間に変化して存在しなくなるであろうということ。そしてすでにどれだけ多くの変化を君自身見とどけたことか、日夜これに思いをひそめよ。
宇宙即变化。人生即主観。 (第4巻三)

 もし叡智が我々に共通なものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通なものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。であるならば、法律もまた共通である。であるならば、我々は同市民である。であるならば、我々は共に或る 共通の政体に属している。であるならば、宇宙は国家のようなものだ。なぜならば人類全体が他のいかなる政体に属しているといえようか。であるから我々はこの共同国家から叡智的なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられているのである。でなければどこからであろう。あたかも私の存在の土の部分はどこかの土から分割され、水の部分はほかの元素から、空気の部分はどこかの源泉から、熱と火の部分はさらに別の固有の源泉から分割されているように──なぜなら何者も無から生ぜず、同様に何者も無にかえらないのである──そのように叡智もまたどこからかきたのである。(第4巻四)

 「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう。(第4巻七)

  有益なるものの本性は必然的にかく働かざるをえないのだ。(第4巻九)

  すべての出来事は正しく起る。もし君が注意深く観察するならばこのことを発見するであろう。私がいうのは単にことの成行きとして起こるというのではなく、正義にしたがってであり、またあたかもある者がめいめいにその価値にしたがって分け前を与えるかのように起るというのである。だから君がすでにやり出したように、その調子で観察しつづけなさい。そして君が何をするにしても、もっとも厳密な意味において良い人間であろうという、そういう心がまえでやれ。このことはあらゆる活動をするにあたって守るがよい。(第4巻一〇)

 君に害を与える人間がいだいている意見や、その人間が君にいだかせたいと思っている意見をいだくな。あるがままの姿で物事を見よ。(第4巻一一)

  君は理性を持っているのか?「持っている。」それならなぜそれを使わないのか。もしそれがその分を果たしているならば、そのうえ何を望むのか。(第4巻一三)

 君は全体の一部として存続してきた。君は自分を生んだものの中に消え去るであろう。というよりはむしろ変化によってその創造的理性の中に再び取りもどされるのであろう。(第4巻一四) 

  沢山の香の粒が同じ祭壇の上に投げられる。あるものは先に落ち、或るものは後に落ちる。しかしそれはどうでもよいことだ。(第4巻一五)

  あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。(第4巻一七)

  なんらかの意味において美しいものはすべてそれ自身において美しく、自分自身に終始し、賞讃を自己の一部とは考えないものだ。実際人間は褒められてもそれによって悪くも善くもならない。一般に美しいといわれているもの、たとえば天然の物資や人工的な製作品などについても同じことがいえる。してみれば美しいものはなにかそれ以上のものを必要とするか。否、それは法律や心理や善意や慎みの場合と少しも変らない。これらのものの中になにがいったい賞められるから美しく、非難されるから悪くなるであろうか。エメラルドは賞められなければ質が落ちるか。金、象牙、紫貝、竪琴、担当、小花、灌木等はどうか。(第4巻二〇)

  渦巻に足をさらわれてしまうな。あらゆる衝動において正義の要求するところに添い、あらゆる思念において理解力を堅持せよ。(第4巻二二)

  あれを見たか。しからばこれも見よ。いらいらするな。自分を単純にせよ。人が罪を犯すか。彼は自分自身にたいして罪を犯すのだ。君に何事か起ったか。よろしい。すべて起ってくることはそもそもの初めから「全体」の中で君に定められ君の運命の中に織り込まれたことなのだ。要するに人生は短い。正しい条理と正義をもって現在を利用しなくてはならない。くつろぎの時にもまじめであれ。(第4巻二六)

  腹黒い性質、女々しい性質、頑固な性質、獰猛、動物的、子供じみている、まぬけ、ペテン、恥知らず、欲ばり、暴君。(第4巻二八)

  宇宙の中にある物を知らない人間は宇宙の中の異邦人だとすれば、その中で起ることを知らぬ人間もまたこれに劣らず異邦人である。市民的理性から遠ざかる君はさすらいびとである。叡智の眼をとじている者は盲目である。他人に依存し、生活に必要なものをすべて自分の懐から出せぬ者は乞食である。起ってくることにたいして不満であるために、我々に共通の自然の理性に背を向け、これから離反する者は宇宙の腫瘍である。なぜならばその出来事をもたらしたのと同じ自然が、君をももたらしたのである。自分固有の魂をすべて理性あるものの魂から切りはなす者は社会から切断された肢のようなものだ。なぜならば魂は一つであるから。(第4巻二九)

 間もなく君は死んでしまう。それなのに君はまだ単純でもなく、平静でもなく、外的な事柄によって害を受けまいかという疑惑から解放されてもおらず、あらゆる人にたいして善意をいだいているわけでもなく、知恵はただ正しい行動をなすにありと考えることもしていないのだ。(第4巻三七)

  彼らの指導理性を注意深くながめ、賢者の避けるものはなにか、追い求めるものはなんであるかを見よ。(第4巻三八)

  宇宙は一つの生きもので、一つに物質と一つの魂を備えたものである、ということに絶えず思いをひそめよ。またいかにすべてが宇宙のただ一つの感性に帰するか、いかに宇宙がすべてをただ一つの衝動からおこなうか、いかにすべて生起することの共通の原因となるか、またいかにすべてのものが共に組み合わされ、織り合わされているか、こういうことをつねに心に思い浮かべよ。(第4巻四〇)

  エピクテートスがいったように「君は一つの死体をかついでいる小さな魂にすぎない。」(第4巻四一)

  後に続いて来るものは前に来たものとつねに密接な関係を持っている。なぜならばこれは単にものを別々に取り上げて数え上げ、それがただ不可避的な順序をもっているにすぎないというような場合とは異なり、そこには合理的な連絡があるのである。そしてあたかもすべての存在が調和をもって組み合わされているように、すべて生起する事柄は単なる継続ではなくある驚くべき親和性を現しているのである。(第4巻四五)

  もしある神が君に「お前は明日か、またはいずれにしても明後日には死ぬ」といったとしたら、君がもっとも卑劣な人間でないかぎり、それが明日であろうと明後日であろうとたいして問題にしないだろう。というのは、その間の期間などなんと取るに足らぬものではないか。これと同様に何年も後に死のうと明日死のうとたいした問題ではないと考えるがよい。(第4巻四七)

  波の絶えず砕ける岩礁のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。「なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!」否、その反対だ、むしろ「なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在に押しつぶされもせず、未来を恐れもしていない」である。なぜなら同じようなことは万人に起こりうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であるとおもうのか。いや、その意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く「これは不幸ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」(第4巻四九)

 明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果たすために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いった全体君は物事を受身に経験するために生まれたのか。それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果たして宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか。
 しかるに君は人間のつとめをするのがいやなのか。自然にかなった君の仕事を果たすために馳せ参じないのか。「しかし休息もしなくてはならない。」 それは私もそう思う、しかし自然はこのことにも限度をおいた。同様に食べたり飲んだりすることにも限度をおいた。ところが君はその限度を超え、適度を過ごすのだ。しかも行動においてはそうではなく、できるだけのことをしていない。
 結局君は自分自身を愛していないのだ。もしそうでなかったらば君はきっと自己の(内なる) 自然とその意志を愛したであろう。ほかの人は自分の技術を愛してこれに要する労力のために身をすりきらし、入浴も食事も忘れている。ところが君ときては、款彫師が彫金を、舞踏家が舞踏を、守銭奴が金を、見栄坊がつまらぬ名声を貴ぶほどにも自己の自然を大切にしないのだ。右にいった人たちは熱中すると寝食を忘れて自分の仕事を捗らせようとする。しかるに君には社会公共に役立つ活動はこれよりも価値のないものに見え、これよりも熱心にやるに値しないもののように考えられるのか。(第5巻一)

 すべて自然にかなう言動は君にふさわしいものと考えるべし。その結果生ずる他人の批評や言葉のために横道にそれるな。もしいったりしたりするのが善いことなら、それが自分にとってふさわしくないなどと思ってはならない。他人はそれぞれ自分自身の指導理性を持っていて、自分自身の衝動に従っているのだ。君にはそんなことにはわき目もふらずにまっすぐ君の道を生き、自分自身の自然と宇宙の自然とに従うがよい。この二つのものの道は一つなのだから。(第5巻三)

  「私は今自分の魂をなんのために用いているか。」ことごとにこの質問を自分にたずね、つぎのように自分をしらべてみるがよい。「指導理性と呼ばれる私の内なる部分は、私と今どういう関係にあるか。そして今私はだれの魂を持っているのか。子供の? 青年の? 弱い女の? 暴君の? 家畜の? 野獣の?」(第5巻一一)

  君の精神は、君の平生の思いと同じようになるであろう。なぜならば、魂は思想の色に染められるからである。であるとすれば、君は魂をつぎのような思想の連続で染めるがいい。たとえば──生きることが可能なところにおいては善く生きることも可能である。しかるに宮廷でも生きることはできる。ゆえに宮廷でも善く生きることができるのである。さらに──各々の物はそれが創られた目的に向かって惹かれる。それが惹かれるものの中にその目的がある。目的のある所に各々の利益と善がある。さて理性的動物にたいする前途は社会生活を営むことである。なぜなら我々が社会生活を営むように生まれついているということはずっと前に明らかにされた。それに低いものは高いもののために、高いものはお互いのために創られていることは明らかではなかったか。しかるに生物は無生物よりも高く、理性を有するものは単に生きているものよりも高いのである。(第5巻一六)

  不可能事を追い求めるのは狂気の沙汰である。ところが悪人がこのようなことをしないのは不可能なのである。(第5巻一七)

  生まれつき耐えられぬようなことはだれにも起らない。同じことがほかの人にも起るが、それが起ったことを知らぬためか、もしくは自分の度量の大きいことをひけらかすためか、ともかくも彼は泰然として立ち、傷つきもしないでいる。無知と自負のほうが知恵よりも力強いとはまったく不思議なことだ。(第5巻一八)

  宇宙の中でもっとも優れたものを尊べ。それがすべてのものを利用し、すべてを支配しているのである。同様に君のうちにあるもっとも優れたものを尊べ。それは前者と同じ性質のものである。なぜならばほかのすべてのものを利用するそのものが君のうちにもあり、君の一生はそれによって支配されているのである。(第5巻二一)

  社会を損なわぬものは個人をも損ないえない。損なわれたと思われるあらゆる場合につぎの規則をあてはめて見よ。もし社会がこれによって損なわれないなら私も損なわれはしない。もし社会が損なわれたなら、社会を損なう者にたいして腹を立てるべきではない。「彼はなにを見あやまったのだろう」と問うべきである。(第5巻二二)

  存在するもの、生成しつつあるものがいかにすみやかに過ぎ去り、姿を消して行くかについてしばしば瞑想するがよい。なぜならすべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因(アイティア)も千変万化し、常なるものはほとんどない。我々のすぐそばには過去の無限と未来の深淵とが口をあけており、その中にすべてのものが消え去って行く。このようなものの中にあって、得意になったり、気を散らしたり、たまは長い間ひどく苦しめられている者のように苦情をいったりする人間はどうして愚か者ではないであろうか。(第5巻二三)

  普遍的物質を記憶せよ。そのごく小さな一部分が君なのだ。また普遍的な時を記憶せよ。そのごく短い、ほんの一瞬間が君に割りあてられているのだ。さらに運命を記憶せよ。そのどんな小さな部分が君であることか。(第5巻二四)

  君の魂の指導理性であり支配者であるところのものは、君の肉の中に起る剛柔の動きに、泰然自若としていなくてはいけない。このような動きにはかかりあわずに孤立し、欲情は肢体の中にとじこめておくべきである。しかし〔他の〕交感性があるために、一つの体である以上当然考えられるように、欲情が精神の中にも昇って行くときにはその感覚は自然のものなのだからこれに抵抗しようとしてはならない。ただし君の指導理性はこれが善いとか悪いとかいう意見をみずから加えぬようにすべきである。(第5巻二六)

  腋臭のある人間に君は腹を立てるのか。息のくさい人間に腹を立てるのか。その人間がどうしたらいいというのだ。彼はそういう口を持っているのだ、またそういう腋を持っているのだ。そういうものからそういうものが発散するのは止むをえないことではないか。
 曰く「しかしその人間は理性を持っている。だからどういう点で自分が人の気にさわるか少し考えればわかるはずだ。」 
 それは結構。ところで君も理性を持っているね。それなら君の理性的な態度によって  相手の理性的な態度を喚起したらいいだろう。よくわけをわからせてやり、忠告してやりなさい。もし相手が耳を傾けるなら君はその人を癒やしてやれるだろう、怒る必要なんか少しもないさ。
 悲劇役者でもなければ遊女でもない。 (第5巻二八)

  君がこの世から去ったら送ろうと思うような生活はこの地上ですでに送ることができる。しかし他人がその自由を許さないなら、そのときこそ人生から去って行け。ただしその場合ひどい目に遭っている人間としてであってはならない。「煙ったい、だから私は去って行く。」どうしてこれを重大なことと考えるのだ。しかしこういうことのために追い払われぬかぎり私は依然自由の身であり、自分のしたいことをするのになんの差障りもない。そして私のしたいこととは、理性的社会的動物の自然(性)にかなったことなのである。(第5巻二九)

  宇宙の叡智は社会的なものである。少なくともそれはより低いものをより高いもののために創り、より高いものを相互に協和せしめた。見よ、いかにすべてがこの叡智によってあるいは従属に、あるいは同格に整頓され、各々その価値に従った分を受け、最も優れたものが互いに一致して生きるように創られていることか。(第5巻三〇)

 どういうわけで技術も知識もない者の魂が技術と知識のある者の魂をみだすのだろう。そもそも技術と知識のある魂とはどんなものか。それは始めと終りとを知る魂、すべての存在に浸透し一定の周期の下に「全体」を永遠に支配する理性を知る魂である。(第5巻三二)

  支配者の立場にある理性は自分自身の性向を知り、自分がなにをなすか、いかなる素材をもってこれをなすかを知っている。(第6巻五)

  ただつぎの一事に楽しみとやすらいを見出せ。それはつねに神を思いつつ公益的な行為から公益的な行為へと移り行くことである。(第6巻六)

  指導理性とは自ら覚醒し、方向を転じ、欲するがままに自己を形成し、あらゆる出来事をして自己の欲するがままの様相をとらしむることのできるものである。(第6巻八)

  周囲の事情のために強いられて、いわばまったく度を失ってしまったときには、大急ぎで自分の内にたちもどり、必要以上節度から離れていないようにせよ。たえず調和にもどることによって君は一層これを支配することができるようになるであろう。(第6巻一一)

  競技場においてある相手が我々に裂傷を負わせ、頭でひどくぶつかってきた。しかし我々は抗議を申込みもしなければ気を悪くもしないし、その後も相手が我々にたいして悪事をくわだてているなどと疑ったりしない。もっとも我々は彼にたいして警戒はしているが、それは敵としてではなく、また彼にたいして疑惑をいだいているわけでもなく、好意を持ちつつ彼を避けるのである。我々は人生のほかの場面においても同じように行動すべきである。我々とともに競技をしているともいうべき人たちにたいして、多くのことを多めに見てあげようではないか。なぜなら私のいったように、人を疑ったり憎んだりせずに避けることは可能なのだから。(第6巻二〇)

  もしある人が私の考えや行動がまちがっているということを証明し納得させてくれることができるならば、私はよろこんでそれらを正そう。なぜなら私は真理を求めるのであって、真理によって損害を受けた人間のあったためしはない。これに反し自己の誤謬と無知の中に留まる者こそ損害を蒙るのである。(第6巻二一)

  私は自分の義務をおこなう。ほかのことは私の気を散らさない。なぜならそれは生命のないものか、理性のないものか、または迷って道をわきまえぬ人びとであるからだ。(第6巻二二)

  死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、心の迷いや肉への奉仕などの中止である。(第6巻二八)

  君の肉体がこの人生にへこたれないのに、魂のほうが先にへこたれるとは恥ずかしいことだ。(第6巻二九)

  我々はみな一つの目的の遂行に向かって協力している。ある者は自覚と理解をもって、ある者はそれと知らずに。たしかヘーラクレイトスがいったように「眠る者すら働き人」であり、宇宙の中の出来事における協力者である。それも人はそれぞれ異なった方法で協力するのであって、これに加うるに出来事を非難する者、それに反抗しようとする者、これを消滅させようとする者さえも協力するのである。なぜなら宇宙はこのような者をも必要としたからである。残るは、君がいかなる人間のなかまにはいるつもりか決心することだ。もちろんいずれにしても宇宙の支配者は君をうまく用い、協力者や助手たちの間のどこかへ加えてくれるだろう。しかし君としては、クリューシッポスが言及している劇の中のくだらぬ、笑うべき詩句のような場所を占めぬように気をつけるがよい。(第6巻四二)

  すべて各々の個人に起ることは「全体」にとってもまた有益である。それはそれでよい。しかし更によく気をつけて見るとつぎのことを知るだろう、すべてある個人に有益なことはほかの人間にとっても有益であるということを。しかしこの場合有益という言葉は、善でも悪でもないどうでもよいことについていうのであるから、より一般的な意味にとらなくてはならない。(第6巻四五)

 名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。(第6巻五一) 

  この事柄について意見を決めたり、心を悩ましたりする必要はない。なぜなら物事はそれ自体において我々の判断をこしらえるような性質のものではないのである。(第6巻五二)

 他人のいうことに注意する習慣をつけよ。そしてできるかぎりその人の魂の中にはいり込むようにせよ。(第6巻五三) 

 あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、 自然に従って余生をすごさなくてはならない。(第7巻五六)

  自分に起ることのみ、運命の糸が自分に織りなしてくれることのみを愛せよ。それよりも君にふさわしいことがありえようか。(第7巻五七)

 なにかことの起る度ごとに、同様なことが起ったとき悲しんだり、驚いたり、非難したりした人たちを目前に思い浮かべてみるがよい。彼らは今どこにいるか。どこにもいない。ではどうだ。君も彼らの真似をしたいのか。ああいう他人の態度はそれを取る人、とられる人に任しておいたらどうなのだ。そして自分はいかにしてこの出来事を活かすべきかということに専心したらいいではないか。そうすれば君はこれをうまく用い、これは(修養のための)よき素材となるであろう。あらゆる行動に際して、ただ自己にたいして美しくあろうということのみが君の唯一の関心事であり念願でなくてはならない。〔そしてつぎの二つのことを記憶せよ。行為の機会はどうでもよい。……〕(第7巻五八)

 自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり 、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。(第7巻五九)

  肉体もまたがっしりかまえているべきであって、動作においても姿勢においても歪められていてはならない。なぜならば心が顔にある作用をおよぼして、これを理知的に優美に保つように、身体全体の上にも同様なことが要求されるべきである。ただしこういうことはすべてわざとらしくては困る。(第7巻六〇)

 君が自分について証言を立ててもらいたいと思う人たちは誰であるか。彼らはいかなる指導理性を持っているか。このことを絶えず考えるがよい。そうすれば知らずにつまずく人たちを非難することもないだろうし、彼らの意見や欲望の源泉をながめれば、その証言をほしいとも思わなくなるであろう。(第7巻六二)


トニオ・クレエゲル - トオマス・マン



打ち明けていえば、トニオはハンス・ハンゼンを愛していて、すでに多くの悩みを彼のためになめて来たのである。最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ──この素朴でしかも切ない教えを、彼の十四歳の魂は、もはや人生から受け取っていた。そして彼の性質として、こうした経験をよく覚え込んで──いわば心に書き留めておいて、そのうえ多少それを楽しんでいるのだった。
 しかしそれでも彼は幸福だった。なぜなら幸福とは──と彼は胸の中で言った──愛せられることではない。愛せられるというのは、嫌厭の念と入りまざった、虚栄心の満足である。幸福とは愛することであり、また愛する対象へ、時としてわずかに心もとなく近づいてゆく機会を捉えることである。そして彼はこの考えを心に書きしるして、それを末の末まで考え詰め、底の底まで感じ尽くした。

彼は己の行かねばならぬ道を、ややなげやりな、むらな歩調で、ぼんやり口笛を吹き吹き、首を横に曲げたなり、遠くを望みながら歩いていった。そして道に迷うこともあったが、それはある人々にとっては、もともと本道というものが存在しないからのことだった。一体何になるつもりかと尋ねる人があると、彼はいつもその度にちがった返答をした。なぜなら、彼は常にこう言っていたからである(そして実際すでにそう書きしるしていた)──自分は無数の生活様式に対する可能性と同時に、それが要するにことごとく不可能性だというひそかな自覚をもいだいている……

感情というものは、暖かな誠実な感情は、いつも陳腐で役に立たないもので、芸術的なのはただ、われわれの損なわれた、われわれの技術的な神経組織が感じる焦燥と、冷たい忘我だけなのです。われわれは超人間的でまた非人間的なところがなければ、人間的なことに対して妙に遠い没交渉な関係に立っていなければ、その人間的なことを演じたりもてあそんだり、効果をもって趣味をもって表現したりすることはできもしないし、またてんからそんなことをしてみる気にさえもならないわけです。文体や形式や表現なんぞの天分というものがすでに、人間的なことに対するこの冷ややかな贅沢な関係を、いあや、ある人間的な貧しさと寂寥とを前提としています。何しろ健全な強壮な感情というものは、何といっても無趣味なものですからね。芸術家は人間になったら、そして感じ始めたら、たちまちもうおしまいだ。

 世の中には、僕が認識のむかつきと名づけているある物があります、リザベタさん。それはね、人間が一つの事柄を見抜きさえすれば、たちまちもう死ぬほど胸が悪くなる(しかも決して宥恕なんぞできる気持じゃない)という状態です

認識と創造苦という呪いを脱して、甘美な凡庸のうちに、生き愛し讃めることができたらなあ。……もう一度やりなおす? しかしそれはなんにもなるまい。やりなおしたところで、またこうなってしまうだろう──いっさいは、今まで起こって来た通りにまたなってしまうだろう。なぜといって、ある人々は必然的に道に迷うのだ。彼らにとっては、もともと本道というものがないのだから。

僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。だからその結果として、多少生活が厄介です。あなたがた芸術家たちは僕を俗人と称えるし、一方俗人たちは僕を逮捕しそうになる……どっちのほうが僕をより烈しく傷つけるか、僕は知らない。俗人は愚昧だ。しかし僕を粘着質で憧憬のない人間と名付ける、あなたがた美の崇拝者たちは、こういうことを顧慮してはどうですか。──世の中には凡庸性の法悦に対する憧憬を、ほかのいかなる憧憬よりも、さらに甘くさらに味わい甲斐があるように感ずるほど、それほど深刻な、それほど本源的で運命的な芸術生活があるということを。


20世紀ドイツを代表する作家の一人、トオマス・マンの1903年発表の今作。ノーベル賞受賞のきっかけとなった「ブッデンブローク家の人々」と、かの名作「ヴェニスに死す」の間に書かれた短編ですね。
「愛されるのは幸福なことなんかじゃなくて、虚栄心を満足させるのに役立つのがやっと」「ある人びとは必然的に道に迷うもので、いろんな可能性があるように思うときもあるけど、反対に何にも可能性がないようにも思えてくる」。誰もが心に抱いていたようなことをズバッと表してます。甘酸っぱい懐かしさを感じること請け合いです。

読みながら思ったのが「”ウェルテル”っぽくね?(よりねっとりしてるけど)」だったんですが、訳者あとがきにそのまま書かれてました。
「誰でも一生に一度は、まるでこの”ウェルテル”が、じぶんのために書かれたのだと思われるようなときがなかったとしたら、それはよくないことだろう」と晩年のゲーテは弟子の一人に語っている。トオマス・マンもまた、これとまったく同じ権利を持って、一九〇三年、作者二八歳の年に書き上げた自作の『トニオ・クレエゲル』について同じ言葉で語ることができるであろう。
同感です。訳者の実吉晴夫のあとがきも、短いですがうまくまとめられていて良いですね。

しかし…、浜川祥枝とかいう実吉氏の教え子が最後に至らんこと書いてますねー。「トニオのハンスへの愛は『同性愛』!『ヴェニスに死す』ではそれがより顕著に描写されてる!そういえば、マン自身も同性愛者だったんですってね!」とか言って水を差してんの。本作の解説にそれは要らんでしょ、絶対。
実吉氏のあとがきまでで充分解説されているので、最後の「解説」は無視しましょう。