えー久しく更新していませんでしたが悪しからず。
今回はユングの「自我と無意識」について
ちょっと書いてみようと思います。
著者も述べている通り、何の予備知識も持たない読者にも
理解できるように平易な文章で書いてあるのでとっつきやすいです。
ユングの著書のうちでも入門書に最適だと思われます。
まぁぼくも全然専門家でも何でもないんで
「ちがうよ~勘違いすんなよ~」とかあったら言ってくださいね。
人間には通常の意識過程では考え付かないような
象徴的な想念が浮かぶときがあります。
夢であったり、むら気を起こさせる空想や、
不意に現れる自分でも信じられないような心的イメージがそれです。
「あれ、なんで私はこういうこと考えてしまうんだろう?」とか
「変な夢だったなぁ」とか
「なんか乗り気じゃないなぁ…なんでだろ?」とか
そういった、自分でも割り切れない考えが
実は「とても意味があるもの」、
「心理学的に重要で不可避なこと」と
深く考察していきます。
もちろん生育過程で受けた影響や諸々の状況、
個人的なコンプレックスもあり一概には言いかねますが、
意識化とは別の領域で活性している想念を
ユングは「本来的な意味での」無意識と呼び、
集合的無意識として人間一般に備わるものと言います。
で、それらの意味することを考察することで
深く自分の内奥を探り、認識を深めていけば
ストレスも無くなりより豊かで健全で衛生的な
人生を歩めますよってこと!!
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では当然なく、むしろ厄介なのは
生真面目にそれを考え込んで
より深みにはまって がんじがらめになってしまうこと。
内向的な人間は、自分では
「あぁ、昔の自分とは違った考え方、ものの捉え方が
できるようになった!!この誠実な精神生活を持続させれば
悩みなんて無くなって、果てには…いや、これが私の人生なんだ!!」
だなんて意気込んで、到達した(と思い込んでいる)精神的高みに得意げに腰を下ろして
自分の意見を手厚く擁護して、意固地になってそれを守り抜こうとして……
いずれ無理がきて落胆、絶望。
この、「そういう人物なりたい」、もっと言えば
「私はこういう道徳観、価値観を持っているので
こう振る舞うのが当然であって、
これこそが私のアイデンティティというものでしょう?」
などというのが「自我」というものであり、
前述の無意識と葛藤するのはこの自我にほかなりません。
では「自我」とはなんなのか?
昨今の「自己啓発ブーム」で
何の価値もないようなセミナーや書籍が氾濫していますが
そこでいう「自己」とはユングにしてみれば自己ではなく「自我」です。
部下から信頼を集めて、いい家庭を築いて、毎週末には家族でお出かけ……
そのためには、資格をたくさん取って、器の大きな人間になって、
ストレスをなくして毎日を楽しもうよ!!
……まあそれも結構ですが、それって違うよね?とユングは言います。
周りから見て「立派な人だ」とか「あの人みたいになりたい」とか
そういった満足だけを頭から信じ込んでそれで満足なら
そういう人はそれでいいんです。
ただ、内から湧きあがるもどかしさ、内的な欲求によって
どうしようもなくなった人は、もうちょっと自分を見つめなおした方が自然というものだし、
そうせずにはいられないということ。
社会的な立場やその他諸々の事象にばかり気を配って
意固地になってその役割を果たそうとする、それが
「ペルソナ」、まさに社会的仮面であって、
実はペルソナはその人自身じゃないし、
つまるところ、集合的無意識がその人という媒体を通して
何かの役割を演じさせているだけのもので、「自己」とは別のものである。
ゆえに、通例として捉えられている未発達の自己、
自我というものはペルソナに埋没した自由無きものである。
それはあなたの周りの生活に支障をきたすほど精神が不安定、
いつも足枷に捉われて何か大きなプレッシャーに
負けそうな人を見れば自明でしょう?と。うん。
だからこそ、真の意味で自分を知り、個性化していくことが大事。
個性化といっても、様々な側面から客観的に自分を分析して行く過程で
深い思索に慣れてくれば、他人を排他的に扱って自分本位になることもないし
自分を知ることで人を知ることが、というか
大体こんなことを考えているんだろうなぁという見方ができるようになります。
そこまで考えられる賢明な人なら、
人のことをその思考過程の細部まで知るというのは
無理な要求であることは分かり切っているはずなわけで。
本当に大切なのは、人とどう関わっていけばいいのかを
真摯に考え続けること。って感じかな?
一生物として人類を考えていくとき
アクティブな精神活動である集合的無意識が働くのは
やはり何かの意味があるところではありますが、
それは自分の中で起こっていることであると同時に
「自分のもの」ではないのです。
それを真正面から受け止めて思い悩むのは
愚かなことだし、骨折り損です。
「生物的な統合意思」が 粗末な意識化における
極端な自我の肥大、思い上がりに警鐘を鳴らすサインのようなもの。
まぁそれが自分でも意味の分からんようなものであったりするから
戸惑いがちではありますが、
集合的無意識が閾下で発する客観的な要求を
「補填的な要素」として自意識とは区別して
うまくバランスをとる、ちょうどいい具合の譲歩、緩衝点を
模索するその主体こそが「自己」。うん、こんな感じかな!!
ざっくりいきましたが多分チンプンカンプンだと思います。
文章が平易な割に内容は難解なものですから。
それに、こういう考え方を馴染みがなかったり
必要性を感じないならば分かるはずもありません。
こういう書物は多くの認識と実体験に照らし合わせながら
一人ひとりが必要に応じて解釈していくべきものなのだと思います。
ぼくも何度も読み返している本ですが
読むたびに感じ方が変わるのを実感している次第です。
まあ、こんな粗末な文章を読んで少しでも興味を持たれた方がいるならば
一読して損はないかと思います。
いじょう。
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