Sep 29, 2014

古都の光 - 太宰府

今月25日に太宰府天満宮を中心に催された「古都の光」というイベントに単騎突撃してきました。


高い秋空。こんなに風情がある夕暮れどきには酒が飲みたくなりますな!

門前町の一角では筑紫女学園大学フィルのコンサートが催されていました。
運良くベンチに座れたんで、よもぎ仕様の梅ケ枝餅を片手に聴き入ってました。

日が暮れてきたら雰囲気が高まります。


ウィークデーなので学生とか高齢者が多かったです。

ねぶた?

九州国立博物館前には近くの幼稚園や小学校の子どもたちが作った無数の行灯が灯っていました。
保護者に自分が作ったやつを自慢する子どもたちの顔には笑顔が灯っていました。



フィナーレに水上舞台で神儀的なものが披露されるのですが、今回は都合がつかずに見れませんでした。次回はぜひ見たいですね。それにしても、柔らかい光が点々と灯った夜の太宰府はとても幻想的だし、なにより歴史と文化の中でいろんな方々が楽しめるとても素晴らしいイベントでした。

今度は博多でも「秋博」と題して、禅寺をライトアップしたりと面白そうなイベントが目白押しです。また忙しくなりそうだ!


Sep 28, 2014

IronをVer.37にすると拡張機能が消える!?


今月8日に公開されたIronのバージョン37へのアップデートで不具合が多数報告されています。
表題の通り拡張機能やアプリケーションが消えているという現象に加え、UIのテーマやデフォルトの検索エンジン設定なども初期状態に戻っています。つまり、保存してある諸設定が正常に反映されないてないわけです。

上の「消えている」という表現は正確ではないですね。Ver36で使っていた拡張機能をVer37で再びインストールすると、当該拡張機能の以前の設定が何事もなかったかのように反映されました。これは、Iron は拡張機能やアプリケーションごとの設定は正常に参照しているが、そもそも Iron 自体にどのような設定をしていたかとか、どんな拡張機能を導入していたかとかいうプロファイル的な部分の参照で不具合が起きている模様です。まあ、これなら元通りに戻すのもさほど苦労しないですね。

フォーラムも賑わっていて、もしかしたら具体的な解決法が見つかるかもしれませんが(あんまり見てないです…)、すくなくともこれを書いた時点のインストーラでは不具合が起きます。注意が必要です。


Fukuoka Music Month 2014 - Nakasu Jazz & Music City Tenjin


9月の福岡は「Fukuoka Music Month」と銘打って、街中や市内各所で様々な音楽イベントが催されました。私も、秋の陽気に誘われるようにいくつか見に行ってみました。



まずは「中洲ジャズ」。中洲大通りを中心に各所にステージが用意され、博多の夜をかき乱します。道路を閉鎖して交差点に設置されている↑のステージは、ご覧のとおり大勢の人で賑わっていました。途中から行っても全然演者が見えなかったので早々に諦め、少し離れてのんびり楽しんでました笑。それにしてもジャズの生演奏は激しい。遠巻きにもその迫力はビシビシ伝わってきました。

ちなみに……地下鉄中洲川端駅を上がった瞬間、誰かに呼びかけられました。振り返るとそこには高1のときのクラスメイトが!ヒマそうだったんで無理矢理付きあわせました。いやー、地元に帰ってきたことを実感しますなぁ(ニタァ)!





お次は「Tenjin Disco」。これは「Tenjin Music Month」には入っていないらしいのですが、市役所前広場で開催されていたのでまとめて掲載。
「Street Dance Stage」と「Salsa Stage」があって、アマチュアからプロまで様々な人がユニークなパフォーマンスを見せてくれました。上は福岡のサルサ教室「MAMBOCCHA」の面々。ルパン三世のテーマなど、親しみやすい楽曲に合わせて息のあったダンスを披露してくれました。それにしても、なかなか大胆な衣装ですな、ご婦人方っ(ニタァ)!!


そして、Music Month の最後を飾るのが「Music City Tenjin」。天神や大名に特設ステージが設けられ、いろんなジャンルのミュージシャンが元気いっぱいに歌や演奏を披露してくれました。広場では酒やスナックの販売もありましたので……そりゃ天気もいいし…楽しげな音楽聞こえるし…で、友達と2人座り込んで饗宴を満喫。

そんなことは置いといて。↑の画像の女の子。やけにデカいギターだなぁと最初は思っていたんですが、この娘が小さい!恐らく小学生ではないでしょうか。パンフレットには「kiriko(クラシックギター)」という表記だけで詳細は一切不明。ソラリア1階ステージでやさしーい童謡のような弾き語りからはじまり、最後はエレキをバリテクでかき鳴らしてました。上手すぎやろ……てか、見た目とギャップありすぎやろ…

あどけなさが残る大人しそうな女の子なのに。。。よく分かんねーけど、彼女は大物になる気がします。



というわけで、今回が初めてのMusic Monthでしたが思いっきり楽しむことができました。8月とは打って変わって好天が続き、過ごしやすい陽気の中、家族連れから老夫婦までいろんな世代の方々がいたので、なんかフツーの野外フェスとは一味違ったやさしい雰囲気がありました。それと、最近は趣味でギターやってるんで、実演を見るのはすごくおもしろいです。ギターに限らず。

来年はSUNSETにも遊びに行けたらなぁと思ってます。いじょう++


ユニクロのYシャツセミオーダーがすごくいい




ユニクロのオックスフォードシャツをまとめ買いしました。オックスフォードシャツと言っても、この「ファインオックスフォード」は上品でなめらかな光沢のある生地ですので、スーツやビジカジにも持って来いです。特に夏場は上着を着ない場面が多く、ペラペラの下着が透けるようなYシャツだけじゃちょっとみっともないので重宝するでしょう。

特記したいのはWEBストアから「セミオーダー」ができてしまうこと!私は長身ヒョロヒョロ体型なので、首周りに合わせたら袖が短くなるし、袖に合わせたらダボダボになってしまうし……と、なかなかいいシャツを見つけることができませんでした。奇跡的に首と袖のサイズが合っているものを見つけても、身幅や袖幅がとんでもなく大きい「イモ臭い」やつしか見当たりません。じゃあオーダーメイドで……ってことで2,3枚は自分の体にあったものを買いましたが、いかんせん値が張る。貧乏性の私が日常使いにするにはちょっと立派すぎるものなのです。

しかし!このセミオーダーシャツならば一枚2,990円!しかも、たまにセールに載るので1,990円で買えることもあります。いくら安いオーダーシャツでも4,5kはするので、これは最高にお買い得です。シャツに詳しい人からも、生地や縫製の品質の高さは褒められているようです。

あくまでセミオーダーということで、用意されたサイズの中から自分の体に合うサイズを探します。例えば、Lサイズだと首周りは「41」「42」「43」、袖丈は「83」「85.5」「88」「90.5」の中からそれぞれいずれかが選択可能です。本来なら私は首周りを「39」でオーダーしたいのですが、まあ安価だということでこのへんが妥協点でしょう。

最近は「もうこれ意外のシャツは着なくていい!」ってくらい気に入っています。ぜひ定番としてずっと作り続けて欲しいです。



Sep 21, 2014

Vision of Estonia - Uku Kuut

Vision of Estonia - Uku Kuut

ソビエトのファンク作家(!?)、Uku Kuut の80年代に収録された音源を集めたものです。たまーに無性に引っ張りだしたくなるCDですね。

特にお気に入りなのは、タイトル曲でもある「Vision of Estonia」のデモ版。もちろん完成版の方も洗練されたアーバンファンクって感じで落ち着いて聴けるいい曲なんですが、デモ版の方がいい意味で荒削りで好み。シンセ鳴りまくってます。CD全体としては、ブギーな曲もあり、メロウな曲もありのアーバンなファンクって具合です。ちなみにほとんどインスト曲。シンセポップが好きな方も普通に気にいると思います。

結構昔の音にも関わらず、不思議と古臭い印象は受けません。どこか懐かしい感じはあるんだけれども、今でもフツーに聴けるほどの魅力とセンスが感じられます。なーんか、子供の頃にテレビの再放送で見た洋画の中の、夜のベイエリアでアメ車を飛ばすような、そんなクールな画が浮かんでくるようです。





Hendrickson Road House - Hendrickson Road House



カリフォルニア州はオーハイの4人組 Hendrickson Road House の1970年発の唯一作。手に入れたのは2年前ですが、最近またハマってよく聴いています。オリジナルは自主制作盤で結構な額で取引きされるものなので手に入るわけもなく・・・CDでリイシューされたやつを持ってます。

中心人物は紅一点の Sue Akins。ボーカルとギターだけにとどまらず、作曲やハープの演奏まで巧みにこなしてます。しかも当時まだ10代だったというから驚きです。

ウエストコーストの明けっ広げな雰囲気の中に、女性ボーカルの気の利いたアンニュイ感がたまらないです。弾き語りの曲も散見されますが、ベースとドラムの入ったちょっとジャジーなサイケロック調の曲が中心です。



Sep 20, 2014

Sep 15, 2014

大工よ、屋根の梁を高く上げよ / シーモア - 序章 - ー J.D.サリンジャー


『ライ麦畑でつかまえて』で有名なアメリカの小説家、サリンジャーの連作2編の小説、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』(1955年発表)と『シーモアー序章ー』(1959年)を一つにまとめたもの。


(注意:ネタバレ全く自重しません。)




はじめに断っておくと、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』の方は読み物としてごく普通に(これから説明しようとしている登場人物や諸作品の関係を知っていれば尚更)楽しめる作品ですが、『シーモアー序章ー』の方はある程度準備がないと読み進めるのが辛いと思います。理屈っぽい中年男が寝っ転がって書いたとりとめのない駄文にしか見えないでしょう(実際そうです)。


その予備知識っていうのを簡潔に言うと…

このサリンジャーが発表した作品はそれほど多くなくて、有名なものはホールデン・コールフィールドが主人公の『ライ麦畑でつかまえて』、そしてここで紹介している2作を含むグラース・サーガと呼ばれるグラース家を(その長男を)中心に描かれる作品の一群となっています。
この2作品の前に短篇集『ナイン・ストーリーズ』やら『フラニーとゾーイー』やらが発表されているわけですが、『ナイン・ストーリーズ』収録の『バナナフィッシュにうってつけの日』という作品の終盤で、グラース家の長男シーモア・グラースが唐突に拳銃自殺してしまうんですね。生前のシーモアが登場する作品は実質的にこの『バナナフィッシュにうってつけの日』だけなんですが、きょうだい達とって両親以上に精神的な影響を与えていた長男シーモアの死のインパクトは絶大なもので、以降の作品ではきょうだいや両親それぞれの視点から、シーモアという存在について、そしてその死をどう受け止めていくかが描かれています。ちなみにきょうだいは上から、長男シーモア、次男バディ、長女ブーブー、双子のウォルトとウェーカー、五男ゾーイー、次女フラニーの7人。

で、今回のこの2作品はシーモアと一番長く過ごし、最も近い存在でありその友人でもあった次男バディが主役であったり語り部であったりするわけです。




はじめは『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』について。

小説家であり大学教授でもある次男バディの視点で、若い時にシーモアの結婚式でとんでもないトラブルに見舞われたときの話が軽快に、そしてとてもユーモラスに著されています。

正直、冒頭からニヤニヤ笑いが止まらないです。

子守を頼まれていたシーモアが、夜泣きするフラニーに「読んで聞かせよう…」とかいって取り出したのは、絵本などではなく…なんと『道教の説話』!しかも生後10ヶ月だったフラニーは後年、その時のことを「覚えてるわよ!」って言って譲らないらしい…(なんや…なんやねんこの家族!)

妹のブーブーから届いた手紙も面白い。「私行かないけど、テメーはちゃんと結婚式行けよ!」って趣旨なんですが、花嫁に対しては「私の考えでは、最低だと思う」とか書いてるし、その母親に対しては流行りの心理学に振り回されている俗物とこき下ろしているし、極めつけは、「あたしは1942年(この結婚式の年)を憎むわ。死ぬまで憎むでしょうね、原則として。」と、かなり辛辣な言葉で締めくくられています(なんや…なんやねんこの家族!)。


そして結婚式当日。
なんと、意味不明な素振りを見せてシーモアが行方をくらまします。バディは、「なんやねん、兄ちゃん…」と思いながらも、とりあえず披露宴会場に移動するために車に乗り込みます。
しかし、乗り合わせた方々の中には「花婿つかまえて、ぶっ殺す!2分で殺す!」とか言い出す血気盛んなご婦人がいるもんで、バディは「いや、自分はただの友人ですよ…」といってごまかしますが、シーモアを精神病者とか言われたらさすがに黙っておけない。ちょっとアツくなったバディがシーモアを擁護していると、婦人から思いもよらない言葉。

婦人「念のために言ってあげてもいいけどさ、あんた、あたしがあんたを誰だと思っているか、分ってる?あんた、シーモアの弟さんでしょう。」
バディ「……!!」
婦人「あんたの顔が、弟という人に似てるもの、ヘンチクリンな写真に写ってたのに。違う?」
バディ「……そうです」

「そうです」じゃねーだろーがよw!


一時はどうなることかと思われましたが、他のご婦人がラジオで有名だったきょうだいにシーモアやバディがいたことを知って話に割り込んできたり、またまた予期せぬトラブルに巻き込まれたりで、なんとかその場は収まります。そして、バディはものすごく居た堪れない気持ちになりながらも、同じ車の中でひとり静寂を保った、ニコニコしているジイさんに心救われるのです。

なんやかんやでとりあえずグラース家のアパートにみんなで移動。シーモア・グッズが見当たるところにあるとご婦人の怒りが再燃しかねないので、シーモアの日記を見つけたバディは洗面所に隠しに行きます。するとそこの鏡には、石鹸カスでブーブーからのメッセージが書き残されていました。

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ。アレスさながらに、丈高き男の子にまさりて高き花婿きたる。先のパラダイス放送株式会社専属作家アーヴィング・サッフォより、愛をこめて。汝の麗しきミュリエルと何卒、何卒、何卒おしあわせに。これは命令である。予は、このブロックに住む何人よりも上位にあるものなり」

なんや…なんやねんこの家族!『粋』や!それ以外に、言葉が思いつかへんっ!
バディには汚い言葉で散々グチってたくせに、シーモアにはこうやってありったけの祝福の気持ちを表すんですからね…。こんな風に人々の絆と信頼、そして愛情が妙に人間臭く表現されているのがサリンジャーの作品の魅力だと思います。


さて、病気と暑さとバツの悪さで参りそうだったバディは、酒を煽ったりしながら風呂場でシーモアの日記を読みふけります。
その内容は、シーモアが軍隊にいた時分の、後に嫁となるミュリエルやその家族との交際を綴ったもの。
知性や関心や価値観、ひいては人生観が全く異なる二人の様子がうかがい知れます。で、(こっからはかなり解釈が分かれてくると思うんですが、)シーモアはそんな彼女を疎んじたりするほど世俗的な考え方をするわけではなくって、なんだか愛玩用小動物を扱うような愛おしさをもって眺めているんですね。私みたいな凡人なら「何言っとんのやコイツは…何も考えてへんやんけ…」って若干引いてしまうような相手の振る舞いを目の当たりにしても、それを「美しい」とか「素朴で素晴らしい」とか感じる人だったんですね。多分、このミュリエルやその家族は比較的快活な生活を送っているようなので、そういった物凄く平凡で、バカらしい部分が大いに散見されたはずでしょうが、シーモアにとっては程度の大小はあれ、この方々に抱くような感情は家族も含めた周りの人間みんなに感じていたような気がします。そして、当人の自殺はこの感情の延長線上に必然的に横たわっていたものだと疑わないわけにはいかないです。

なんとなーくですけど、その感情の片鱗は分かる気がするんですよ。うーん、なかなか書こうとしても書けないというか、頭のなかで考えだすのすら悍ましいような、そんな気持ちです。まあ確実に言えるのは、シーモアは辛いこととか悩みに耐え切れなくなって死んだとか、そういうんじゃないってことです。悩みなんて、例えば「オレだけ頭良すぎて、周りの人の価値観と違いすぎる!共感してくれる人がいないのが苦しい!」とか、そんなチンケな悩みなんて全くなかったわけで、かといって逆に「ああいう人たちが羨ましいなあ!生活に必要のないことまで延々と考えてしまうオレは本当におかしなやつだ!」と自分を責めたわけでもない。なんというか…確かにミュリエルとの生活には、ひいては人生にも幸せを感じていたんだろうけど、別にそれに固執するほどの意味も見いだせないような…敢えて捨て去る気にもならないのだけれど、別に…的な、ちょっと浮世離れした死生観にまで考えが達していたのだと思います。生き続けるのはとりわけ苦しいことではないけど、死ぬっていうこともそんなに苦しいこと、悲しいことじゃない、みたいなね。よく分かんねーや。
『バナナフィッシュにうってつけの日』でシーモアは、死ぬ直前に浜辺で小さい女の子と出会ってテキトーなやりとりを交わすんですが、心から女の子の純朴さを尊く感じて満足していたし、その表情には柔和な笑顔すら浮かべていました。



そして、『シーモアー序章ー』について。

こっちは冒頭に書いたように、非常に読みにくい(というか、読む価値もないような)調子でくどくどと語られる、次男バディの手記です。死んだ兄貴のことを思い出して郷愁に耽るというもの。まあ、このとりとめのない書き方こそが、シーモアという精神的な支柱を失ったバディの心痛を思いっきり表現しているという意味では、これ以上の書き方はないようにも思えますね。正直言って内容はほとんど覚えていないのですが(笑)、バディへの愛着が増すことは請け合いなので、グラースサーガに深い興味をいだいたのなら読んでみるといいと思います。



とりあえずこんなところでしょうか。『バナナフィッシュにうってつけの日』が収録されている『ナイン・ストーリーズ』や、『フラニーとゾーイー』も大好きな本なので、またの機会に紹介できればと思います。

ではでは+

人生論 - トルストイ



 言わずと知れたロシアの大文豪、レフ・トルストイの『人生論』。1886~87年に書かれたものなので、トルストイが58~59歳の頃に書かれたものですね。その時代のエセ科学、目的を見失ってしまった科学のための科学を辛辣に批判しながら、「そんなんじゃなくね?そんなん突き詰めて人間が幸せになるんか?人類が幸せになるためには昔の偉い人らが言っとったこと、もうちょっとマジで振り返ってみらんとアカンとちゃうんか?」と論述していきます。

 序盤はそのエセ科学が猛烈に叩かれる展開なのですが、中でも一番キレているのは「科学者や現代の宗教家どもが、人生のために本当に大事なことを包み隠して、自分たちの都合のいいようにごまかしていること」。彼に言わせると、そいつらが恥知らずな真顔でやっちゃってることは実用性のかけらくらいは認めてもいいけど、それを極めたからって人類の幸福度は上がりっこないですよ、と。じゃなくって、本当に大事なことはもっと単純なんだと、彼はアツく語ります。

で、人生にとって大事なことを考えてみる前に、まず『動物的な自我』っていうのが厄介だよねって話になります。人間には、生物としての本能的な欲求、つまり食欲や睡眠欲や性欲とかもあるけど、他にも「他の誰よりも美しくありたい」「強くありたい」「賢くありたい」「お金欲しい」とかいろんな欲求がありますよねって言って、これをまとめた『個人の幸福を求める欲』がつまり『動物的な自我』なんだと。そして、この『動物的な自我』に突き動かされて『個人の幸福』を求めたとしても、当然周りにもそういった野心的で粗野なヤツらはいくらでもいるわけで、結局、熾烈で無意味な競争に巻き込まれるだけじゃん、それでアンタ幸せなんか?と問いかけます。

「は?いや、確かに幸せとは限らんかも知れんけど、でもその『動物的な自我』っていうの否定してしまったら何も残らんやんけ!ワシに山に篭っとけ言うんか?寺入れ言うんか?ヒッピーにでもなっとけ言うんか!?死ね言うんか!?」
もちろん、こういう反論はあるわけですね。そうできりゃ幸せだろうけど、社会が、時代が許さないじゃないですか、って具合に。で、これに対してロシアの賢人は言うわけです。

「心配いらへん・・・『愛』やで・・・愛があればええんやで・・・」

・・・お、おう。
・・・でもな、そんなん知っとるっちゅーねん!つーかキリストの受け売りやんけ!
と、当然のリアクションはあるわけですが、トルストイは「知っとっても、できてないから苦しいんやで」と言葉を続けます。みんなが聖職者になる必要なんかない。『動物的な自我』を真っ向から否定したら、そりゃ答えが出ないことは分かっている。ここでちょっと考え方を柔らかくして、『動物的な自我』っていう厄介者は、人間の生存のために必要不可欠なものって割り切って、上手く手懐けるくらいにしといたらいいんじゃないですか、と。

そこでさっき言った『愛』が出てくるわけですね。『愛』のために生きることこそを、まず、第一の目的にしましょうよ。これこそが人間の真の生活!・・・つーかね、『動物的な自我』とかクドクドと考え始めた時点でもうアンタはそのままではいられない状態まで成熟してるんですよ。「オレも、オレの周りのクソみたいな連中までひっくるめて幸せになればいいなぁ!」と心から願うことができるような状態こそが最も自然で、理想的な人生なんや!と、熱弁が続くわけです。

この『愛』、あえて書くまでもないでしょうが、「from動物的な自我」の愛とは明確な区別が必要です。例えば、「あの娘が好きや・・・」とか言う世俗的で恣意的な愛っていうのは、結局、「お前それ自分のためやんけ!」と一蹴されます。「私のために尽くしてくれる彼が好き♥」「好きなタイプ:優しい人orリードしてくれる人」とか言語道断です。じゃなくって、「みんな幸せになればいいなぁ!」って願って、自分のほほ笑みを通じて他人を優しい気持ちにさせるような、そんな態度こそが、本来的な『愛』のかたちってわけですね。『隣人愛』って言われてる例のアレ。だから、初めに書いた「昔の偉い人」っていうのは、なにもイエスとか有名な人のことだけを言っているわけじゃなくて、今昔関係なく、『愛』を大事にして、人生の中で大事なものを見いだせてそれを実践して生きた(生きている)人たちのことだったんですね。太っちょのおばさんのことですよ!ええ!


つーわけで、結局キリスト教とかところどころ仏教をトレースしたような内容のこの『人生論』。まあ、トルストイ自身もキリスト教徒だったんで当然といえば当然で(未だに破門されているとどっかで読んだ気もする)、振り返るとそんなにオリジナリティあるものとも感じないのですが、私は大好きな本です。正直に言って同じようなことをクドクドと繰り返す冗長な書き方になっていると思うんですが、それが全然苦にならずにスラスラと読み進めることが出来ます。訳者の力量もあってのことだとは思いますが、その文体の美しさと説得力には、さすが大文豪と唸らずにはいられないです。でも全然押し付けがましくないので不思議です。
いやーでも、こういった平易な言葉で書かれた誰でも読めるような本だからこそ、読むたびに発見がありますね。今回久しぶりに読み返して、高校生の時に引いた傍線の箇所を目にするたびに、「ああ、あのときはここに感嘆したんだなあ」と少しくすぐったい気持ちになりました。今回引いた傍線も、いつか興味深げに眺めることになるんでしょう。背表紙はもうボロボロですが、これからもずっと大事にしたい本です。