Sep 15, 2014

人生論 - トルストイ



 言わずと知れたロシアの大文豪、レフ・トルストイの『人生論』。1886~87年に書かれたものなので、トルストイが58~59歳の頃に書かれたものですね。その時代のエセ科学、目的を見失ってしまった科学のための科学を辛辣に批判しながら、「そんなんじゃなくね?そんなん突き詰めて人間が幸せになるんか?人類が幸せになるためには昔の偉い人らが言っとったこと、もうちょっとマジで振り返ってみらんとアカンとちゃうんか?」と論述していきます。

 序盤はそのエセ科学が猛烈に叩かれる展開なのですが、中でも一番キレているのは「科学者や現代の宗教家どもが、人生のために本当に大事なことを包み隠して、自分たちの都合のいいようにごまかしていること」。彼に言わせると、そいつらが恥知らずな真顔でやっちゃってることは実用性のかけらくらいは認めてもいいけど、それを極めたからって人類の幸福度は上がりっこないですよ、と。じゃなくって、本当に大事なことはもっと単純なんだと、彼はアツく語ります。

で、人生にとって大事なことを考えてみる前に、まず『動物的な自我』っていうのが厄介だよねって話になります。人間には、生物としての本能的な欲求、つまり食欲や睡眠欲や性欲とかもあるけど、他にも「他の誰よりも美しくありたい」「強くありたい」「賢くありたい」「お金欲しい」とかいろんな欲求がありますよねって言って、これをまとめた『個人の幸福を求める欲』がつまり『動物的な自我』なんだと。そして、この『動物的な自我』に突き動かされて『個人の幸福』を求めたとしても、当然周りにもそういった野心的で粗野なヤツらはいくらでもいるわけで、結局、熾烈で無意味な競争に巻き込まれるだけじゃん、それでアンタ幸せなんか?と問いかけます。

「は?いや、確かに幸せとは限らんかも知れんけど、でもその『動物的な自我』っていうの否定してしまったら何も残らんやんけ!ワシに山に篭っとけ言うんか?寺入れ言うんか?ヒッピーにでもなっとけ言うんか!?死ね言うんか!?」
もちろん、こういう反論はあるわけですね。そうできりゃ幸せだろうけど、社会が、時代が許さないじゃないですか、って具合に。で、これに対してロシアの賢人は言うわけです。

「心配いらへん・・・『愛』やで・・・愛があればええんやで・・・」

・・・お、おう。
・・・でもな、そんなん知っとるっちゅーねん!つーかキリストの受け売りやんけ!
と、当然のリアクションはあるわけですが、トルストイは「知っとっても、できてないから苦しいんやで」と言葉を続けます。みんなが聖職者になる必要なんかない。『動物的な自我』を真っ向から否定したら、そりゃ答えが出ないことは分かっている。ここでちょっと考え方を柔らかくして、『動物的な自我』っていう厄介者は、人間の生存のために必要不可欠なものって割り切って、上手く手懐けるくらいにしといたらいいんじゃないですか、と。

そこでさっき言った『愛』が出てくるわけですね。『愛』のために生きることこそを、まず、第一の目的にしましょうよ。これこそが人間の真の生活!・・・つーかね、『動物的な自我』とかクドクドと考え始めた時点でもうアンタはそのままではいられない状態まで成熟してるんですよ。「オレも、オレの周りのクソみたいな連中までひっくるめて幸せになればいいなぁ!」と心から願うことができるような状態こそが最も自然で、理想的な人生なんや!と、熱弁が続くわけです。

この『愛』、あえて書くまでもないでしょうが、「from動物的な自我」の愛とは明確な区別が必要です。例えば、「あの娘が好きや・・・」とか言う世俗的で恣意的な愛っていうのは、結局、「お前それ自分のためやんけ!」と一蹴されます。「私のために尽くしてくれる彼が好き♥」「好きなタイプ:優しい人orリードしてくれる人」とか言語道断です。じゃなくって、「みんな幸せになればいいなぁ!」って願って、自分のほほ笑みを通じて他人を優しい気持ちにさせるような、そんな態度こそが、本来的な『愛』のかたちってわけですね。『隣人愛』って言われてる例のアレ。だから、初めに書いた「昔の偉い人」っていうのは、なにもイエスとか有名な人のことだけを言っているわけじゃなくて、今昔関係なく、『愛』を大事にして、人生の中で大事なものを見いだせてそれを実践して生きた(生きている)人たちのことだったんですね。太っちょのおばさんのことですよ!ええ!


つーわけで、結局キリスト教とかところどころ仏教をトレースしたような内容のこの『人生論』。まあ、トルストイ自身もキリスト教徒だったんで当然といえば当然で(未だに破門されているとどっかで読んだ気もする)、振り返るとそんなにオリジナリティあるものとも感じないのですが、私は大好きな本です。正直に言って同じようなことをクドクドと繰り返す冗長な書き方になっていると思うんですが、それが全然苦にならずにスラスラと読み進めることが出来ます。訳者の力量もあってのことだとは思いますが、その文体の美しさと説得力には、さすが大文豪と唸らずにはいられないです。でも全然押し付けがましくないので不思議です。
いやーでも、こういった平易な言葉で書かれた誰でも読めるような本だからこそ、読むたびに発見がありますね。今回久しぶりに読み返して、高校生の時に引いた傍線の箇所を目にするたびに、「ああ、あのときはここに感嘆したんだなあ」と少しくすぐったい気持ちになりました。今回引いた傍線も、いつか興味深げに眺めることになるんでしょう。背表紙はもうボロボロですが、これからもずっと大事にしたい本です。



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