May 8, 2014

「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」 - 京都母殺害心中未遂事件

photo credit: ToOliver2 via photopin cc


2006年2月1日未明に起きた「京都認知症母殺害心中未遂事件」の初公判の内容をまとめたものです。

今際の際までも決して途切れることのない母子の愛情には心が強く打たれます。
また、福祉行政の在り方についても考えさせられる話です。私達も一市民として責任をもってこういった問題に対していく必要があると思います。


京都市伏見区桂川河川敷で2006年2月1日に無職片桐康晴被告が認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。

事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めた。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、1995年に父が死亡。その頃から母に認知症の症状が出始め、一人で介護していた。
母の生活は2005年4月ごろから昼夜が逆転。深夜徘徊で警察に保護されるほどに症状は進行していった。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが、介護負担が軽減されることはなく9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立できる仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、2006年1月31日に心中を決意した。


「最後の親孝行に」

片桐被告は心中を決意したこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光した。そして翌2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で事件は起きたのである。

「もう生きられへん。此処で終わりやで」などと言うと、母は

「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が

「すまんな」と謝ると、母は

「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母と額をくっつけ向かい合うと、母は

「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。

この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。
母の首を絞めて殺し、 自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、 眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。殺害直前の2人のやりとりや、

「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」

という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

裁判の中で片桐被告は、

「私の手は母を殺めるための手だったのか」

と、嗚咽混じりに言葉を残した。


東尾裁判官が片桐被告に下した判決は次の通りである。
「尊い命を奪ったと言う結果は取り返しのつかない程に重大であるが、その経緯や被害者の心情を思うと、社会で生活し自力で更生するなかで冥福を祈らせる事が相当である。被告人を懲役2年6ヵ月に処する…」

続けて、

「…この裁判確定の日から3年間 その刑の執行を猶予する」

殺人としては異例の執行猶予つきの判決である。そして被害者である母の心情をこう述べた。

「被害者は被告人に感謝こそあれ、決して恨みなど抱いておらず、今後は幸せな人生を歩んで欲しいと望んでいるであろう」

判決の後、片桐被告は裁判長から
「絶対に自分で自分を殺める事のないようにお母さんのためにも、幸せに生きてほしい」
と言われ、「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。


片桐被告に言い渡した後、東尾裁判官は次のように言葉を残した。
「本件で裁かれるべきは被告人だけであろうか。 否、介護保険や生活保護行政の在り方も問われなければならない。 こうした凄惨な事件に発展してしまった以上、どう対応すべきだったかを行政関係者は考え直す余地がある」






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